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【誌上テーマ別サロン】第117回 <基礎講座>   仕方がない駄菓子屋の衰退 ―「中小企業経営学入門」(117)―
【誌上テーマ別サロン】第117回
<基礎講座>
  仕方がない駄菓子屋の衰退
―「中小企業経営学入門」(117)―
1 子どもの「たまり場」としての駄菓子屋
・第2次世界大戦後、子どもの「たまり場」として駄菓子屋が一定の役割をはたしていた時期があった。自宅の軒先や土間などの空間を利用して店舗をつくり、そこに飴(アメ)などの菓子を陳列して、周辺の子どもたちに販売していた。
・そして、「クジつきの商品」は子どもの絶大な人気であった。そこは、子どもが一人前の消費者になれるコミュニケーションの場であったかもしれない。
・駄菓子屋の経営主体は後年になると、高齢の男女(おばあさんやおじいさん)に変わってしまうが、当初は戦争未亡人が多かったといわれている。つまり、夫が戦争で生命を失い、経済的な基盤がなくなったので、「にわか商人」になった女性たちが経営主体であったのである。戦後の商店街の発展にも、生活の糧を得るために、自分の調達できる商品を出店した「にわか商人」が多かったのと、それは同じである。
・働く場がさがしてもないような状況にあっては、自分で働く場をつくらなければならない。つまり、駄菓子屋は「自活」の心で出店している。
2 全盛期の駄菓子屋業界
・東京・荒川区の日暮里には、昭和30年代から40(1955~1970)年代にかけて、駄菓子の問屋街が形成されていた。そこには、150の卸売業者が活動していたが、現在では「大屋商店」が一店舗あるのみになっている。
・卸売業者が多くあったということは、子どもが関心をもつような商品をつくりだすユニークな小規模なメーカーがあったということであり、卸売業者が全国の駄菓子屋に卸して、この駄菓子屋を通じて子どもたちの手にわたっていたことを意味している。しかし、このような構造をつくっていた多くの小規模メーカーと卸売業者が衰退してしまったのである。
・これにかわって、大規模な菓子メーカーが、子ども向けの商品を開発し、全国的な流通チャネルと広告活動を駆使して、子どもの消費市場に参入してきた。地域では、和菓子屋やベイカリーなどが健闘しているが、子どもの駄菓子屋ばなれによる閉店が多くなるなかで、駄菓子の小規模なメーカーも衰退してきた。
3 「絶滅危惧種」になってしまった駄菓子屋
・このようにして駄菓子屋は、衰退してしまったが、少しは残っており、まったくなくなったといえないかもしれない。しかし、駄菓子屋は、ほぼ「絶滅危惧種」の企業や産業になったといえる。
・経営主体も高齢化し、後継者も見つからない状況なので、実質的に残っている店舗もなくなることであろう。子どもの頃に駄菓子屋を利用したことのある高齢者には、“思い出のある店”であるが、衰退は仕方がないだろう。
(2019.7.24稿)
永続的成長企業ネットワーク 理事
横浜市立大学名誉教授  斎藤毅憲
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  • 開催日2022年12月5日
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