[特別企画]
『「本」からみた横浜の経営者(第9回)』
松信泰輔著(1977)『一商人の軌跡』有隣堂刊
・著者は有隣堂の4代目の社長として活躍した人物であり、伊勢佐木町1・2丁目地区商店街振興組合理事長としても尽力している。また、日本書店組合連合会の会長、日本出版販売会社の監査役などで、出版業界の発展に貢献した。
・松信八十男著(1999)『横浜有隣堂九男二女の物語』(草思社)によると、有隣堂の創業者である松信大助・隆子夫妻は、節子、久太郎、総次郎、泰輔、泰正、太助、隆也、幹男、八十男、義章、孝子の11名の子どもに恵まれており、これによると著者の泰輔は3男であることがわかる。
・1916年生まれで、市立横浜商業(Y校)卒業後、有隣堂に入社している。1957年に取締役、61年には社長になっている。社長の在職は、長く、1995年までつづき、30年をこえる期間にわたって、同社の発展に貢献している。その後、病を得て同社の経営から退いている。
・したがって、この著書は還暦すぎの経営者として脂の乗っている時期のものである。お客様用の情報媒体となるPR誌「有隣」などを中心に、それまで書きとめてきたエッセイをまとめたものである。目次をみると、『月刊エコノミスト』に書いた「なんでも東京化はごめんだ」(9-21頁)のあとに、「社長のひとりごと」(25-143頁)、「商人論・事業観など」(147-185頁)、「書店経営論」(189-342頁)が続いている。
・冒頭のものは東京集中化を懸念し、みずからは「地域密着の立派な商人」になることを宣言している。書店数は人口に応じているが出版社については8割以上が東京に集中しているといい、これに挑戦するという心意気を示している。
・「社長のひとりごと」と「商人論・事業観など」のふたつのパートは、エッセイをまとめたものであり、100弱のテーマのもとに書かれた小文が収録されている。書店経営者らしいテーマもあるが、幅広い分野での言葉が目に入ってくる。「有隣」に書いたものが多く、1967年から74年までの間、ほぼ毎月1回ペースで執筆しているようであり、その執筆力は驚くほどのものといえる。これには、ただただ敬服するほかない。
・するどい目をもっているとともに、勉強が並はずれているといってよい。書店経営者であるメリットを生かして、多くのジャンルを読み、それをベースにしているのである。これを読むと、著者は横浜を代表する経済人であるが、同時に横浜の文化人の典型であったと評価できる。
・最後の部分にある「書店経営論」であり、10篇の講演記録が収録されている。それぞれが具体的なデータや実態をふまえており、それぞれが立派な論文になっているように思われる。「高賃金化時代の書店経営」、「書店大型化への私見」、「出版業界の現状と展望」、「新しい本屋―若者の琴線に触れる」、「これからの書店経営」などのテーマが並んでいる。書店経営のあり方が、本書からも当時大きく変わりつつあることがわかる。
・本書には、いろいろことが書かれているが、ここではふたつの論点だけを述べておきたい。それは冒頭にある「なんでも東京化はごめんだ」という問題意識である。横浜だけでなく、地方の中核都市も東京化におおわれているが、この東京化への反省と地域文化の復活の主張が色濃く見られていることである。ハマッ子の心意気が、そこにはある。
・もうひとつは、書店経営者である以前に、立派な商人になること、商人道の確立と実践が大切であることを強調していることである。本書のタイトルが『一商人の軌跡』とあるが、まさに商人というビジネス・パーソンのあり方を問うている。
・「書店は風雪に耐える企業」(296-297頁)であり、「地域密着こそ生きる道」(316-317頁)であるという。これらは地域に生きる企業にとっては、いまも大切にしたい言葉であろう。約40年前の本であるが現在でもヒントにできる著書と思っている。
永続的成長企業ネットワーク 理事
横浜市立大学名誉教授 斎藤毅憲
[2016.2.15]