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[特別企画]『「本」からみた横浜の経営者(第7回)』

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[特別企画]
『「本」からみた横浜の経営者(第7回)』

島岡圭子(2009)『横浜元町オザワ洋装店物語』思想の科学社刊

著者は、乳がんになり、片方の乳房を失った母の体型をうまく補正する洋服をつくてくれた元町3丁目にあるオザワという小さなオーダーメイド店の創業者夫妻のことを一冊にまとめている。そして、そのなかでは元町という商店街の人たちの生活の歴史というものもあわせて書いている。
目次は以下の8章からなっている。
プロローグ
第1章 元町の誕生
第2章 こわい人
第3章 初めてのお客様
第4章 元町SS会の一員として
第5章 オザワのやり方
第6章 出会い紡いで
第7章 別れの雪
第8章 流されもせず
1958(昭和33)年3月に開店した“Dress Maker OZAWA”(オザワとか、元町オザワ)は、小澤健次郎・美登利夫妻によって創業されている。まもなく60年の社歴をもつことになる。ふたりの生い立ちと結婚に至る過程については、プロローグ、第1章、第2章において書かれている。元町には1914(大正3)年に大津喜久治による大津洋装店が高級婦人服の業務のパイオニアとして創業されていたが、健次郎は1931(昭和6)年に同店に奉公に上がっている。戦後、復員した彼は再開された大津洋装店に勤務している。そして、洋装ブームのなかの1954(昭和29)年、12歳年下の美登利が同店に入職し、一緒に仕事をすることになる。健次郎は若い美登利にとって“こわい存在”でもあったことを第2章では述べている。
結婚後、独立して元町で開店するが、最初の注文者になったのは世界的な生物学者・木原均のお嬢さん(姉妹)であった。そして、横須賀のアメリカ海軍の女性将校服の注文などもうけていることを第3章では明らかにしている。
第4章では商店街組織のモデルともいうべき元町SS会の活動を述べているが、チャーミング・セール、オザワ初のオリジナル商品としてロングセラーとなったケープスーツ、社会貢献としての高風(こうふう)子供園への奉仕、SS会の打ち出した海外との姉妹商店街構想への協力参加(海外視察)などが取り扱われている。要するに、ふたりの活躍ぶりが書かれており、健次郎の海外視察にあたては、美登利の「内助の功」があったという。
第5章は章名が示しているようにオザワの仕事のやり方を述べている。職人の心をもった健次郎のつくるものは「繊細に作りあげられた、たおやかな服」で、まさに色気のある洋服づくりであったという。そして、彼の周辺にはそれを可能にしたすぐれた弟子や職人が存在している。また、ミニスカートの波はオザワには少し遅れてくるが、それは「流行の後にも先にもいかない服」をつくることもめざしてきたことから考えると、自然のことであったであろう。オリジナルデザインのケープスーツはこの流行に関係ないものとしてつくられている。オザワがさらにこだわったのは、アフターケア(修理)を大切にし、「一生もの」として愛着をもって着つづけられるようにしたことである。要するに、こだわりのオーダーメイドがオザワの精神であり、それを支えるスキルをもっていたのである。
第6章は、顧客となり、そして親しくなった人びと(吉屋信子、澤田美喜、平野恒など)のことが述べられている。それだけでなく、元町商店街の人びととの交流もしめされており、おもしろい。また、元町の近くにあるフェリス女学院の女学生と「ハマトラ(ヨコハマトラディショナル)」ブランド―フクゾー、ミハマ、キタムラの商品―の関係も書かれている。さらに第7章は健次郎の死、第8章は死後も美登利、御子息の徹、美千代の夫妻によって再出発の道をすすんでいることを書いている。
本書は顧客であった著者が資料の吟味や聞き取り調査を通じて、まとめられている。小さいが、まさにキラリと光るお店と他に追従を許さない元町商店街の実像に迫っていて、興味深い。長くつづいてきた店には、利用者であるお客には見えないきわめて多くの物語りが実在してきた。本書もその物語りをたんたんと描写している。

永続的成長企業ネットワーク 理事
横浜市立大学名誉教授  斎藤毅憲