野並豊著(2007年)『大正浜っ子奮闘記』神奈川新聞社刊/1200円+税
著者には、『楽しき哉 人間模様』(1993(平成5年))、『心さまざま人間模様』(1995(平成7)年)、『行きつ戻りつつ人間模様』(2000(平成12)年)の3冊が神奈川新聞社から出版されてきた。「人間模様」に関する3冊シリーズは、著者の思いや経験などがさまざまに書かれており、ビジネスパーソンでありながら、横浜の文化人であることを示している。これに対して『大正浜っ子奮闘記』は著者の一代記になっている。2008(平成20)年は崎陽軒が100年企業になった年であるが、その前年につくられている。
シウマイ弁当は現在では全国区となっており、全国的に知られている。ラズウェル細木著(2012年)『なぜ今日もシウマイ弁当を買ってしまうのか』(集英社)のように、崎陽軒の著名度は高い。誇張的にいえば、シウマイは横浜の代名詞のひとつでもある。
まえがきのあと、第1章は「青春時代と戦争」であり、慶應義塾大学に入学するまでの時期をとり扱っている。この章には社名の崎陽が江戸時代の唯一の開港地であった長崎が中国商人から“太陽のあたる岬”と呼ばれていたことから使われたことを明らかにしている。もっとも、『楽しき哉 人間模様』をみると、「きようけん」とは読んでもらえず、「さきようけん」と読まれてしまうことが多かったという。また、「シューマイ」は栃木県出身の初代社長にとっては「シィーマイ」になってしまったとし、また中国人は「シウグマイ」と読むとのことで、「シウマイ」になったという。
さらに、第1章では小学校、Y校、Y専の時代の話もおもしろく、その時代のことが目に見えるようである。これに対して、第2章は「シウマイ弁当誕生」というタイトルで、社長就任前までの時期をとり扱っている。戦後の横浜駅舎内での食堂の再開や東口における中華食堂の開店、結婚と長男誕生からスタートし、大ヒットとなった「シウマイ弁当」と赤い服を着た「シウマイ娘」のことが書かれている。その後のなかでは東口に新築されたシウマイショップや東京への販路開拓、西口開発への関与などがとり扱われている。それと、横浜青年会議所での活躍ぶりと両親の死が述べられている。
第3章は「崎陽軒社長として」である。43歳で社長となり社長就任とともに「吾等の信条」(真心を以って事にあたる、良い品を安く売る工夫を、冗費をはぶき物を大切に、和を以って社内の協調、職場規律は厳格に)という5個条の経営理念をつくり、毎年、目標や課題をかかげた経営を実践している。それは新たな経営展開のはじまりであった。東海道新幹線の時代となり、駅の構内営業にとっては最大のピンチが到来している。東京から小田原、熱海への行楽客は新幹線を利用するようになり、横浜は素通りとなってしまい、当然のことながら業績は悪化したのである。このようななかで、「真空パックシウマイ」の発売、横浜駅以外の駅での構内営業の拡充、立ち売り営業から売店営業への転換、郊外型レストランの開店、生産工程の自動化などのイノベーションが次々と行われている。その後の経過のなかでは、「特製シウマイ」、「ポケットシウマイ」、点心の開発、本社ビルの建設のほか、横浜駅東口、西口の開発がおもしろい。崎陽軒にとって、横浜駅への思いは強い。「仕事場であるとともに故郷の母家」であるからである。
この章では、業界関係、自分の趣味や病気などのほか、経営へ対する考え方、つまり経営には「経済性」だけでなく「社会性」と「文化性」の3つの側面が重要であることを示している。私が横浜市大に在職中に講義を傾聴したときにも、学生に対してこの3つの側面が大切であることを力説していたのを昨日のように思いだすことができる。
最後の第4章は、「地元・横浜とともに」であり、人材育成重視の経営、横浜博覧会の思い出、直文社長へのバトン・タッチ、ボランティア活動、Y校や横浜市立大学への奉仕、東口駅前の本店新設、などが書かれている。家庭生活のことも述べられており、野並さんの人間性を知ることができる。
本書が出版された翌年(2008年)に、崎陽軒は創立100年を迎え、立派な記念誌を公刊されたが、これをもあわせ見られると、崎陽軒のこれまでの歴史がわかると思っている。
永続的成長企業ネットワーク理事
横浜市立大学名誉教授 斎藤毅憲